戦後復興から75年続く、精密部品製造の事業承継。次に渡すために「会社を変える」ということ【株式会社キョーワハーツ様】
この記事でわかること
- 後継者が「継ぎたい」と思う会社の作り方
- 属人化した営業・値決めをどう仕組み化したか
- 価格転嫁を「根拠」で進められるようになるまでの道のり
1. はじめに
後継者が見つからない。価格を上げたいけれど、言い出せない。会社をもっと良くしたいのに、何から手をつければいいかわからない。
中小企業の経営者なら、こうした悩みに心当たりがあるのではないでしょうか。
神奈川県横浜市に拠点を置く株式会社キョーワハーツは、1951年創業の精密金属プレス加工メーカーです。「薄い・細い・小さい」を強みに、通信機器や医療機器向けの微細精密部品の製造を手がけています。
(株式会社キョーワハーツ様公式HPより)


2代目社長の坂本氏は2026年度の秋、娘である専務・留実さんに社長の座を引き継ぎます。7年かけて準備してきた、3代目への承継です。
ただ、この7年は「誰に継がせるか」を決めた7年間ではありません。「渡せる会社にする」ために、組織を、営業を、値決めのしくみを、ひとつひとつ変えてきた7年間でした。
今回のインタビューでは、社長と専務に、その道のりを振り返っていただきました。
2. 75年続く会社のはじまり
キョーワハーツの歴史は、1951年5月、東京・目黒川沿いの10坪の工場から始まる。
創業者・坂本透氏は終戦後、海軍の技術研究所でレーダー研究に携わっていた技術者だった。戦争が終わり、市民生活に戻った徹氏は、電気と機械の知識を手に「何か世の中の役に立てないか」と考えた。
最初に目をつけたのは、電熱器だった。
坂本社長:
「焼け野原の中からいろんな部材をかき集めて電熱器を作って、それが結構売れて。でもガスが普及してくると売れなくなってしまう。」
需要を見つけ、作り、売る。しかしそれだけでは続かない。次の一手を探す中で出会ったのが、金属加工の仕事だった。
インタビュア:
「そこから金属加工へはどういう経緯で移っていったのでしょうか?」
坂本社長:
「当時、固定電話が一斉に普及しはじめていたんです。電電公社に『電話を引かせてくれ』と言っても、順番待ちで何年も先という時代で。電線に関連する金具が必要になるということで、『金属加工をやれるところがないんだよ』と相談があって。じゃあやろう、ということになりました。」
家の玄関にフットプレスを2台置いて始めたプレス加工。その頃、お客さんの間で自然と広まった言葉がある。「共和の明後日」。今日注文すると明後日には届く——その速さと確かさが評判を呼び、仕事はどんどん増えていった。1951年建てた工場は、ホームページに当時の写真が掲載されている。
坂本社長:
「当時の創業者の精神としては、技術を生かして世の中の役に立つ、人のために役立つ、というところですね。」
その後、スキーのビンディング(靴の留め具)製造や海外輸出など、時代の波に乗りながら事業を広げていった。「自社商品を作りたい」という夢は、創業者の代からすでにあった。完成品を求め、チャレンジし、そして部品作りに戻る——その繰り返しの中で、キョーワハーツの技術は少しずつ深まっていった。
坂本社長が会社を継いだのは1985年、35歳の時だった。父の体調が悪化し、男3兄弟で話し合って後継者を決めた。「継いでほしい」とは言われなかった。だから自分の4人の子どもたちにも、同じようにしてきた。
3. どん底のたびに、より良く変えてきた歴史
インタビュア:
「坂本社長が入社したときはどんな状況でしたか?」
坂本社長:
「とにかく社長と社員さんが相容れないという状況で、『うちの社長は何をやってるんだ』みたいな雰囲気があって。心が通じ合わない状態がずっと続いていた。それを何とかしよう、いい会社にしたいよねっていうのが、入った時の強烈な印象というか、ずっとやってきたことの一つです。
入って1年後に当時工場長だった人が辞めてしまって、しかもメインのお客様を連れて行ったので業績はどんどん悪くなっていきました。新規開拓をやって3年くらいかけて立て直したんですが、その時に人の縁で、父親の同級生で東芝の金型部門にいた技術屋さんがうちの会社に来てくれたんです。親父が『うちの息子に技術を教えてやってくれ』と。その人に『平行と直角』という考え方を散々言われて、当時は100分台だった精度が、今は2/1000ぐらいまでどんどん上がってきています。」
インタビュア:
「これまでの経営を振り返って、何か大きな出来事はありますか?」

坂本社長:
「一番最近の波はリーマンショックでしたね。それまでの携帯電話とかビデオとかの部品の売上がガーンと落っこちて。しかもガラケーからスマホへの移行があって、うちはガラケー向けにやっていたので、売上の半分近くが3年くらいかけてゼロになってしまって。
そこから盛り返していく時に、脱下請けというか、『自社商品開発をやろう』ということで、『NOUQUE(ヌーケ)』というファイルを開発しました。テレビ東京WBSとかNHKのまちかど情報室とか、いろんなテレビで取り上げていただいた時はガッと売れるんだけど、だんだんその勢いがなくなってくる。今もネットショップで売ってるけど、そんなに売れるわけではない。」
( NOUQUE(ヌーケ)公式ページより)
https://nouque.jp/

坂本社長:
「でもやっぱり、自社商品開発をやった時の経験が今の『薄い・細い・小さい』につながっている。当時はどちらかというと手のひらサイズみたいなものだったけど、今はもう本当に小指の先ぐらいの薄い・細い・小さいという微細精密の方向です。携帯をやってた関係もあって『小さい部品が得意だ』ということで、仕事もだんだんそういう方向に集約してきていますね。」
4. 「継いでほしい」とは言わなかった
インタビュア:
「3代目への承継を意識し始めたのはいつ頃ですか。」
坂本社長:
「60になった時に『65までには』と考えていたんですが、なかなかそういう道が開けなくて。誰にも継いでほしいとは言っていないんですよ。僕も親父から言われなかったので。ただ常に頭の片隅に「この先どうなんだろう」とは思っていて。
事業承継って「早く手を打たなきゃダメだ」とよく言われるけど、これが難しくて。社員さんの中でということも考えるけど、借入金の保証人の話とか、「誰もやりっこない」のが現実で。とにかく経営を良くしていく、収益性の高い会社にしていかなきゃということなんですけど、中小のものづくりって収益性とか自己資本とか、誰もが「この会社やりたい」と手を挙げるような会社にするっていうのは本当に難しいんですよね。そんな中で本人の方から「入りたい」と言ってくれて。」

常に頭の片隅にはあったが、言葉にはしなかった。でも、娘の留実さんには何かが伝わっていたようだ。
専務(留実さん):
「確かに『継いでほしい』とは言われたことはないんですけど、オーラがめっちゃ出てたので(笑)」
留実さんが承継を意識し始めたのは、高校3年生の時。進路を考え始めた頃、坂本社長が97日間も入院するという出来事があった。

専務(留実さん):
「5歳まで1階が工場・2階が自宅という家で育ったので、ものづくりは身近にあったんですけど、その時に『いつかこの人も死ぬんだ』と思って。将来の選択肢として、そういうのもある、考えなきゃなと思いながら大学に入りました。」
大学は理工系へ進み、IT系企業で技術営業として3年半働いた。その間も実家に住み、会社の変化を近くで見ていた。自社商品開発、ものづくり補助金への挑戦、明け方まで続く作業——「いま会社がこう良くなっているんだ」と語る父の背中が、気づかぬうちに選択肢を形にしていった。
2019年8月、留実さんはキョーワハーツに入社した。
インタビュア:
「『入りたい』という話をもらった時は、どんな気持ちでしたか。」
坂本社長:
「こういうことってあるのかと思いましてね。半ば『事業承継は難しいな』とずっと思っていたので、それが大きかったです。具体的な人がいないと、どうにもならないので。」
継いでほしいと言わなかったのに、「継ぎたい」と言ってきた。それは偶然ではなく、会社がそう思われる場所であり続けてきた結果だったのかもしれない。
5. 渡せる会社にする、ということ
承継を本格的に動かし始めた坂本社長が向き合ったのは、「誰に継がせるか」ではなく「渡せる会社にする」という問いだった。
坂本社長:
「最初から5年くらいは必要だろうなとは思っていました。古い体制から会社が変わっていかなきゃいけない。昔から引きずっているものを変えられないと、渡せないなというのはあって」
7年間で取り組んだことは、大きく2つ。組織の見直しと、営業体制の刷新だ。
インタビュア:
「組織面ではどんな変化がありましたか。」
専務(留実さん):
「入ったばかりの頃は、現場でトラブルが半年に1回ぐらい起きているな、みたいな感じだったんです。」
これまでの採用は、欠員が出るたびに補充するスタイルだった。足りないタイミングですぐに人手を確保できる反面、「多少のことはしょうがない」という判断が積み重なっていく。結果として技術はあっても組織になじめない人材が増え、現場の空気が少しずつ重くなっていった。
そこから採用基準を見直し、新卒採用に切り替えていく中で、組織の雰囲気は変わっていった。

専務(留実さん):
「今は気にすることがほとんどないですね。安心して任せていける感じがします。」
もうひとつの課題が、営業の属人化だった。長年、値決めからお客様との関係まで、すべてを一手に担っていた人物がいた。
専務(留実さん):
「どうやって値段が決まっているのかもわからないし、利益が出ている仕事なのかもわからない。お客さんのこともあまり知らない、という状態で。一番大事なところがよくわからないというのが、正直なところでした。」

坂本社長:
「よく考えると怖いよね。」
体制が変わったのは、ちょうど2年前のことだった。
インタビュア:
「その体制が変わった2年前が、承継のターニングポイントになったんですね。」
専務(留実さん):
「属人化がそのままだったら、今のタイミングでの承継にはならなかったと思います。」
変化は、数字や仕組みだけではなかった。社員との距離感も、少しずつ変わっていった。
坂本社長:
「社員さんが直接僕には言ってこれなくて、こちら(専務)に言ってくるとか。『祝日も休みにしてほしい』という話が出て、帰りの車の中で相談されて、15〜20分で『じゃあやるか』ということになった。」
専務(留実さん):
「帰るまでに決まっちゃいましたね(笑)」
こうした変化を受け止められたのは、20年以上かけて育ててきた土台があったからでもある。知人に紹介された日創研をはじめとする、外部研修への継続的な投資、力量表や人材育成計画の整備、ISOに基づくマネジメントシステムの運用。
「社員が育つ仕組み」は、留実さんが入社するずっと前から、坂本社長がコツコツと積み上げてきたものだった。
6. 「なんでこの50銭が上がったのか」を説明できるか

営業体制が変わったタイミングで、留実さんが本格的に取り組んだのが値決めの仕組み化だった。どの仕事が利益を生んでいるのか、どの取引先が本当に大事なのか——経営の根幹が、誰にも見えていない状態からのスタートだった。
インタビュア:
「値決めの仕組み化は、どう進めていったんでしょうか。」
専務(留実さん):
「ある程度習えば誰でもできるようにしよう、というのが最初の考え方としてあって。営業メンバーをもう1人迎えて、私も本当に初心者に毛が生えたぐらいしかわかっていない、基礎は何もわかっていないという中で、見積もりを回していく仕組みをどう作るかというところを、1年半くらいかけて取り組みました。」

インタビュア:
「取り組みを進めるうえで、外部のサポートがあることについてはどう感じましたか?」
坂本社長:
「フォーバルさんから、決算書を見て、総勘定元帳まで出してほしいと言われて(笑)。そこまで見るのかと思いましてね。普通のコンサルってそこまでやらないじゃないですか。正直『すごいな』と思いました。
それとフォーバルさんだと1人じゃなくてチームがいて、いろんなお客様の事例がたくさんあるので。個人のコンサルだと経験って限られるじゃないですか。そこが未知の可能性を持っているというか。専務との会話でどんどん話が積み上がっているのを見てて、ちゃんとやっているなということもわかってきました。」
専務(留実さん):
「外部の研修やアドバイスって、『確かにその方向性はいい』『やったら良さそうだよね』というところまでは行くんですけど、じゃあ実際うちの会社に当てはめた時に、何を分析して、どういう情報を集めて、具体的にどう動いていけばいいのかというところが、一番パワーがいるし、ノウハウが必要で。そこを一緒にやってくださるというのがすごく心強いですね。
これに入力するだけで大丈夫ですよ、という状態まで、スプレッドシートで関数を組むところまでやってくれたので。
中小企業ってみんな掛け持ちで仕事しているので、なかなか改善に工数が割けなかったり、やり方がわからなかったりということがすごくたくさんあると思っていて。それに対して「こういうやり方したらいい」「他社さんではこういうふうにしていた」というのを具体的に教えてくださるのは、ありがたいなと思っています。」

「正しい」と「できる」には大きなギャップがある。その差を埋めることが、伴走支援の本質だ。
仕組みが整ったことで、価格転嫁にも根拠を持って向き合えるようになった。
インタビュア:
「価格転嫁の交渉は、どう変わりましたか。」
専務(留実さん):
「価格が上がるのは、みんなまあそうだよね、という感覚はあるんですけど。じゃあなんでこの50銭が上がったのか、というのが一番知りたいところだと思っていて。それを全部クリアにできているというのが、すごく強みになってるんです。」
「見積書もめちゃくちゃ細かく書くんですよ。プレスの作業でいくら、検査でいくら、洗浄でいくらとすべて細かく計算できるようになっているので、それをこちらが提示するだけ。お客さんから『もうちょっと下げてよ』という依頼が来たとしても、どこまで下げれば粗利が残るのかがわかるので、感覚じゃなくて根拠を持って対応できます。」

さらに、既存のお客様をほぼ全社、2年かけて直接訪問した。顔を見て、空気を感じて、話をする。その中で見えてきたことがある。
専務(留実さん):
「価格の安さだけを求めている会社なのか、価格以外の部分も含めて採用していただいている会社なのかが、はっきり見えてきました。『キョーワハーツがうまくいくことでうちの会社もうまくいく』というふうに、パートナーとして見ていただけているかどうか。この活動の中でそこが明確になったのは、本当に良かったと思っています。」
価格転嫁の取り組みは、単なる値上げ交渉ではなく、今後5年・10年付き合っていくべき取引先を見極める、経営判断のプロセスでもあった。
会社を「渡せる状態」にする準備は、数字の整備だけでなく、経営者としての判断を見つめ直すことにも繋がっていく。
7. 「自分が正しい」を捨てる
今年の秋、坂本社長は留実さんに社長を引き継ぐ。承継を考える経営者、そして後継者の立場にある人へ、それぞれにメッセージを聞いた。
インタビュア:
「同じ悩みを持つ経営者に、伝えられることがあればお願いします。」
坂本社長:
「知り合いに聞いた話なんですが、この前、仲間の会社で外から後継者を招き入れたら、結局その人は辞めてしまったという話があったんです。どうしても口出ししてしまうんですよね。『自分が正しい、自分の経験ではこうだ』と。そうすると『じゃあどっちが社長なの』という話になって、『自分には決定権がないのか』と言って辞めていってしまう」
インタビュア:
「留実さんに対しては、どのように関わってきたのでしょうか。」

坂本社長:
「ああしろ、こうしろは言っちゃいけないと思ってずっと来たんですね。相談があったらアドバイスはするけど、基本は一緒に考えて決めていく。僕だって正解を持っているわけじゃないし、仕事ってやってみないとわからないことばかりですから。」
「我々の周りでも、親父さんが会長になってから口を出されて困っているとか、株を持っているだけで経営の仕方にいろいろ文句を言われるとか、そういうのって本当にあるんですよ。だからまず、『自分が正しい』から『チームとして進む』という経営に切り替えていかないといけない。チームとして将来に向かって、誰もわからない可能性に向けて進んでいくわけじゃないですか。そのチャレンジができるような人間関係を作っていく。昔、研修で習ったけど、『成果の上がる組織の三要素は、共通の目的・共働の自発性・コミュニケーション』だと。そういう組織にしていくということが、この会社なら誰かが継いでいけるぞということに繋がっていくんじゃないかなと思っています。」
―後継者の立場として、同じ境遇にいる人へ伝えられることはありますか?

専務(留実さん):
「会社に入った時、28歳とかだったので、『いきなり会社を継ぎます』と言って、「こんな娘が入ってきて」と絶対に思われているだろうなというのはありました。最初の半年〜1年は現場研修として工場に入って、教えてもらう立場として自分ができる貢献をしようというのはすごく意識していました。」
インタビュア:
「自分の居場所は、どのようにして作っていったんでじょうか。」
専務(留実さん):
「社員さんとコミュニケーションを取る中で『こういうツールないかな』とちょこちょこ相談をもらえるようになって。そこで前職のIT系の知識が活きて、『じゃあすぐやろう』と、変えていく一員にしてもらったかなというのはありますね。社長も新しいものを「これはいい」って誰よりも早くホームページ作ったりだとか、「とりあえずやってみる」という意識が浸透しててみんな変化に強かったので。先代を完全に真似するのではなく、会社の文化をリスペクトしながら、自分だからこそできることをしっかり探していくようにしていました。」

教えてもらうだけじゃなく、自分からも貢献できることを見つけていく。その姿勢が、ベテランとの距離を自然に縮めていった。
8. 最後に
「失敗したもの勝ち」と、坂本社長は笑いながら言いました。
リーマンショックで売上が半減し、自社商品開発も思い通りにはいかなかった。それでも挑み続けてきた背景には、創業者・徹氏から受け継いだ「技術で世の中に役立つ」という精神がありました。戦後の焼け野原から部材をかき集め、電熱器を作った男の言葉は、75年を経た今も、会社の根幹に流れています。
後継者問題は、探せば見つかるというものではないのかもしれません。「継ぎたい」と思われる会社になっていくこと——組織を整え、数字を見える化し、チームとして進む経営へと変わっていくこと——その積み重ねの先に、承継の道が開けてくるのではないでしょうか。
75年分の技術は今年の秋、次の手に渡ります。

今回取材にご協力いただいた会社様
株式会社キョーワハーツ/神奈川県横浜市/精密金属プレス加工
HP:https://www.kyowa-hearts.com/
フォーバルによる主な支援:ITインフラ整備、経営数値の可視化、価格転嫁・値決め支援、伴走型経営コンサルティング